平泉会運営委員 刀根 絵里
陶芸ブームというものがあって、それも今となってはブームとして去り、幾年か が過ぎた。
中学校の美術で、陶芸を行うと、最初は大変なことになる。生徒は粘土を指で突 付いて穴を開ける、丸めて投げる、ガラスの窓に貼り付けるなど無法地帯と化す。
そんな時、粘土のことを次のように話した。 「土は自分がされた事を全て覚えているんだよ」「人は、粘土を突付いて、穴を開 け、投げつけて遊んだ事を忘れてしまう、そんな事はしていないと嘘も付ける。 しかし粘土は誤魔化せない。穴を空けられた粘土は、その後それでお皿を作ると、 土に空気が混じっている為、焼くと爆発してしまう。イイカゲンな気持ちで作っ たお皿は必ず土がその扱いを覚えていて形が歪んだり、無理をした部分からヒビ が入ったりしてしまう。誰も見ていなくても、自分が忘れてしまっても、土は貴 方のした行動を全て覚えているものなんだよ」
すると、それまで粘土をちぎっては飛ばしていた中学生が、もう二度とそんな風 に粘土を扱ったりしなくなった。陶芸は、自分の行った所業が全て残り現れると いうことを気づかせてくれる。
人は、結果さえ良ければいいと考え、その工程をないがしろにしてしまうこと がある。高価な器を大切にしても、その原料となる土を見ても汚らしいとしか思 わない。しかし物を作ることを知っている人は、裏山の崖の下の湿った土を嬉々と して拾いその美しさに感動する。 生まれたばかりの赤茶色い子供を見て、可愛いと思い、抱き上げて飽きもせず語り かける。 一方、既製品しか知らない人は、赤ん坊には言葉も通じないと思い、触れることも なく育てる親となる。子供が泣いてわめくようになってはじめて「なんでこんなに 上手くいかないのか」と思っても遅いのだ。
物作りを学ぶことは、物が生まれる前の資源である自然を愛する心を育てるこ とである。
陶芸は単なるブームで終ってしまったが、これからは陶芸や絵画が多くの人に 自然の成り立ちを学ぶ機会となって欲しい。