哲学者 梅原 猛
戦後60年間、日本人は大変重要なことをおろそかにしていたように思います。 それは平和憲法と対をなす新しい道徳を創造することです。
学校でも家庭でも、人間はどう生きるべきかとか、何をしてはいけないかとい ったことは、あまり厳しく教えない。このことが、いろんな問題を引き起こす大 きな原因となっているのです。
道徳についての私の考え方は、二点あります。
一つは、道徳は人間にのみあるのではなく、動物にもあるということです。
西洋の倫理学はほとんどすべて、道徳は人間にのみあると考えますが、それは 人間中心主義の誤った考え方だと思う。道徳は動物にもあるのです。動物の場合 は、仏教の教えである自利と利他がおのずからバランスを保っていて、秩序を乱 すことはあまりありません。しかし人間の場合は、欲望が他の動物よりはるかに 複雑で肥大していますから、それを抑えなければ、社会の秩序は破壊されます。
もう一つは、私は道徳の根源を母ごころにおいて考えたいのです。
個人と社会の関係を重視する西洋の倫理学には、道徳の源は家庭にあるという 考え方はほとんどありません。しかし私は、親の子に対する愛、とくに母の子に 対する愛はすべての動物の遺伝子の中に組み込まれているものであり、そのよう に自然に存在する利他の心を子や孫に、あるいは社会や国家や人類に及ぼしてい くのが道徳ではないかと思うのです。
仏教の利他の考え方、あるいは山川草木悉有仏性、生きとし生けるものには平 等の生命が宿っていて、みんな仏になれるという考え方が、日本人の道徳の根源 にならなければならないと思っています。この思想の中にこそ、母ごころの回復 が求められるべきです。私は母ごころ、すなわち子どもに対する無私の愛を広く 人間一般、さらに衆生一般に広げたところに宗教があり、道徳が成り立つのだと 思います。
平泉会代表の保坂良平氏は、私のこの考えに賛同してくれている一人です。
彼は、美校卒業後の9年間、絵の具箱を担ぎ放浪スケッチで日本中歩いたこと を自分では托鉢の歛丐(かんかい乞食)と言ってたそうだ。それは恩師三雲祥之助 から教わった道元や般若心経六波羅蜜の実践だったのでしょうか。また10年間 の医学部解剖教室での人体研究では、ナノミリメートル脳細胞の世界を見て、地 上も宇宙も皆つながって生きている「いのち」の神秘を感じたと言っている。その 経験から芸術は、上手下手でなくすべての「いのち」を養うための手段であり、何 よりもまず描くてだてを優先したい、とNPO法人平泉会を発足された。
そのような自然と人間との係わりを真剣に考え、優しい豊かな「心の健康」を推
進されている平泉会の皆さんの活躍を今後とも願っています。
(NPO法人平泉会顧問) 2005年・機関誌「平泉」特別号より